ヴァン・ホーエンハイムという名前を貰った男はいう。
「家庭」が人間にとっての「幸せ」だったりするのだと。
そして尋ねる。
ならばフラスコの中の小人よ、オマエの幸せはなんなのかと。
続きは↓からどぞ。
お父様、『家族ごっこ』は楽しいの?
フラスコの中の小人は子供であった。
だから目の前のことにしか興味がなかった。
「フラスコから解放されたい」
「自由に動ける身がほしい」
フラスコなしで生きられる身になった時、彼はもう「フラスコの中の小人」ではなくなる。
では彼は何になるのか。
名前を持たない生命体は自分が何なのかもわからない。
だから彼は
「お父様」
になった。
いや、人間を超越する知識を持った彼にとって
自分が何者か、などどうでもよかったのかもしれない。
いつしか自分の基となった奴隷が言った。
「家庭」が「幸せ」なのだと。
奴隷の問いに小人は正直に答えた。
そのときの自分が正直に思う幸せ。自由の身になること。
小人はその幸せを手に入れた。
しかし、自分ひとりで抱えるそれは
つかの間の幸せだったのだろう。
フラスコの中の小人は学はあった。あらゆる学問における知識を生まれながらに持っていた。
しかし社会面での知識とは違った。
小人は奴隷の言った「幸せ」を理解するのに苦しんだはずだ。
自分の思う幸せを彼に与えてやったのに、彼は絶望したのだから。
誰かと築く幸せ。
その過程で誰かが傍にいて互いの心が触れ合うからこそ
そこに「幸せ」が生まれるのだ。
だから人は「家庭」を幸せと呼ぶのだろうか。
フラスコの中の小人の考えはそこまで至らなかったかもしれない。
けれど、奴隷が教えた幸せを彼は再現してみた。
分身を何体も生み出し、「お父様」と呼ばせ、自分もまた彼らを「息子」と呼んだ。
「お父様」のしていることは、いわゆる、家族ごっこなのだ。
自分が親と呼んだ人物がそれを幸せと呼んだから。
奴隷が言った「幸せ」をフラスコの中の小人が理解することはない。
彼には「愛」がないから。
言葉を交わしても、心は触れ合わないから。
見よう見まねのまがい物。
それでも小人は「幸せ」を知りたかったんだと思う。